「別れよう。」
唐突に告げられた別れ。なんで、どうして、と頭の中でグルグルと思い当たる節を考える。だけど、一向にそれはでてこなかった。
「急にどうしたの?」
あくまで平然を装って聞いてみる。彼女は俯いたまま何も答えてくれなかった。
「ねぇ、なんで?俺なにかしちゃった?」
ふるふる、と首を横に振って、蚊の鳴くような声で「違う。」と言った。それなら、なんで。
「じゃあ何?理由がなきゃ納得できない。」
「貴方は何も悪くない。私が悪いの。」
私が悪い。その言葉の意味を、馬鹿な俺は理解出来なかった。いや、その一言だけでは、馬鹿じゃなくとも理解できないのでは無いだろうか。
「何?なんで君が悪いの?」
「私の事、好き?」
俺の問いかけには答えず、まるで浮気を疑う女のように、彼女はそう聞いてきた。そんなの、決まっているじゃないか。
「好きだよ、好きだから別れたくない。」
君はもう、俺のことは好きじゃないのだろうか。
「もう、俺のこと嫌いなの?だから別れたいの?」
「違う、好き、好きだよ。」
「だったらなんで!」
思わず大声を出してしまう。一向に理解ができない。どうして、好きなら、どうして俺と別れたいの、どうして、どうして。
「好きだけど、一緒にいたくない。」
「どういうことだよ、本当に何言ってるの?」
本当に。彼女は、俺が好きで、俺も、彼女が好きで、なのに別れようなんて。今までそんな素振り一切見せなかったじゃないか。昨日まで、楽しそうに笑っていたのに、どこで間違えたんだろうか。
「貴方は、私以外と幸せにならなきゃ。」
だから、ごめんね。と声を震わせる。床に水滴が落ちて、彼女が泣いていることがわかった。
「意味がわからない。なんで君以外と幸せにならなきゃいけないの?俺は君がいいんだよ。泣くほど嫌なら別れなくたっていいじゃないか。」
「だめ、だめなの、私じゃだめ。」
「いい加減にしろ!」
鈍い音を鳴らして、彼女を突き飛ばしてしまった。痛いからなのか、泣いているからなのか、一瞬見えた彼女の顔は、酷く歪んでいた。尻餅をついて、顔を上げた彼女は、瞳にいっぱいの水を溜めて、耐えきれなくなったそれが決壊して頬に流れる。それを見て俺は彼女に馬乗りになった。
「なんで、嫌だよ。別れない。」
「お願い、別れて。」
「嫌だ!なんでなんだよ!!」
頭の中で何かが切れる音がした。ブチンッと、引っ張りすぎたゴムが切れるように。
彼女の首を絞めた。思いっきり、今までこんな力を出したことがないんじゃないかと言うくらい。頭に血が登りすぎてクラクラする。それでも力は緩めなかった。何か声が聞こえる。か細い、高い声が。
「」
一気に意識が戻った。ただ俺の荒い息遣いだけが部屋の中に木霊する。彼女を見た。眠っていた。血の気の引いた顔で、息をせず眠っていた。
「…なんで、なんで。」
まだ、俺の中にある感情は疑問だけ。どれだけ考えても、問いかけても、何もわからない。死人に口なし、とはこの事を言うのか。
「あのさ、俺、本当に好きなんだよ、だから、嫌だって言ったのに。」
立ち上がりながら彼女だったものに言う。
歩いて、クローゼットを開けて、その中に入っている小さな紙袋を取り出した。
「これ、渡したかったのに。」
その中に入っていたのは小さな箱。またその中に入っているのは、シンプルな指輪。0.4カラットのダイヤモンドが一つ埋め込まれたプラチナの指輪。
「本当は明日渡すつもりだったんだ。」
うっすら血色が残る彼女の左手の薬指にそれを嵌める。華奢な指に嵌ったそれはとても綺麗だった。
「結婚式、本当はもっと綺麗な所で、綺麗なドレスでしたかったんだけど、無理そうだからここでしようか。」
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、互いを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか。
「誓います。だから、君も誓ってよ…」
一気に色んな感情が込み上げて、涙が溢れる。自分の指にも指輪を嵌めて、彼女の手を取るけれど、もう固まって動かなかった。以上に冷たくて、もう、何が何だか分からなくて、涙以外にも溢れだしそうだった。
「ごめん…ごめんね……」
フラフラ、酔っぱらいの千鳥足見たいな足取りで家を出る。階段を降りて数分歩く。大きな川が目の前に広がった。
「ごめん…」
もう夜だから、真っ暗で誰もいない。たまにサイレンや電車や車の走行音が聞こえてきて、そこに俺の静かな呼吸音。
ゆっくり歩みを進める。一月の川は異常に冷たい。だけど、さっきの彼女の冷たさよりも、まだマシな方だった。
ついに足がつかなくなって、フワリと身体が沈む。肺に冷たい水が流れ込んできて、視界がフェードアウトしていく。何かが見える。走馬灯とか言うやつだろうか。
初めてあったのは大学のサークル。写真サークルの体験に行った時、そこにも彼女がいた。正直、景色の写真を撮るんじゃなくて、彼女を写した方が、何倍も美しいんじゃないかとも思った。それは俺が一目惚れしてしまったからなのか、周りの景色が霞んでいたからなのかわからないけれど、本当にそう思った。それから兎に角彼女に近づきたくて、沢山話しかけて、沢山一緒に写真を撮りに行った。そして告白して、彼女も好きだと言ってくれて、今日まで、七年と五ヶ月。
泡沫。薄ら見える。水面に上がっていく泡。
苦しい。苦しい。堪らなく苦しい。この苦しさは、息苦しさなのか、それとも──
足がついた。一気に川の流れに押されて、魚のように打ち上げられた。急激に肺に酸素が入って、酷くむせた。思いっきり水を吐いて絶望した。握りしめた手にある指輪が濡れて、嫌に光った。彼女の元に行けなかったことに落胆して、びしょびしょに濡れて重くなった体を引き摺って家に戻る事にした。
「ただいま。」
と言ってみた。何も返ってこなかった。左の寝室に黒い靴下を履いた冷たい足が見えた。それを無視して、いつもふたりで過ごしていたリビングに入る。そこにあるテーブルに、身に覚えのない紙が見えた。なんだろう、とそれを手に取って開いてみた。
「え?」
そこに書かれていた物に、自分でも驚くほど低い声が出た。
「なにこれ。」
診断書だった。病名の所に書かれていたのは、『膵臓癌』と言う言葉。
俺でも知っている。生存率が非常に低い病気だ。そうか、だから、彼女は。
膝から崩れ落ちる。アニメみたいに。ガクンッと崩れる。打ち付けられた膝が痛かった。冷えていたから、余計に。
暫く放心して、寝室の彼女の元に行く。相変わらず血色感のない寝顔で、もう涙も乾いていた。
「ごめん、ごめん……ごめん。」
何度も、何度も、ごめんと言う。彼女が最期に行った言葉を繰り返す。
「ごめんね…ごめん…。」
今度こそ、声をあげて泣いた。喉が痛い。焼けるように痛い。なんで、どうして!
真逆、俺の為に、離れようとしたのか、否、違う。そんなの俺の為じゃない。酷い、酷すぎる。最期の最期まで、酷すぎる。なんで、どうして、どうして…
ひたすらに泣いた。ごめん、なんで、ごめん、痛い。色んな言葉が、感情が、頭の中を行ったり来たりする。
冷たくなった彼女を見る。いつまで経っても息をしてくれない。当たり前だ。俺が殺したんだから。殺したんだ。俺が、彼女を、この手で、殺したんだ。
後悔が一気に押し寄せる。きっと、彼女もそうだと思う。後悔の「ごめんね」が、ずっと耳に残る。いかなければ、彼女の元へ、逝かなければ。スーツと一緒に掛けてあるネクタイを扉のドアノブに結んで、固まってしまった彼女の手を握る。力を抜いて、首をかける。今度こそ、今度こそ。
息ができない。目の前が霞む。心臓の音がうるさい。でも、これで、これで。
「ごめんね。」
その言葉を、最期、俺はちゃんと言えていただろうか。
三日後のニュースは、カップル二人が亡くなった事で持ち切りだった。無理心中だと言われた。冷たい二人の指に輝く指輪については、誰も知らなかった。
二人の愛は、もう息をしない。